
私はかつて1年間、イタリアのフィレンツェにある語学学校に通っていた。
そこでの気づきや体験がおもろかったのでまとめてみようと思う。
①人は人である
向こうでの様々なエピソードを通して学んだこと、それは『人は人だ』ということ。
そりゃそうだろと思われるかもしれないが、大真面目に言う。
イタリアだからとか日本だからとか、究極関係ない。
我々は違う。外見も然り。
留学中は特に、自分は外国人だという現実がさらにその意識を加速させる。
だが実際住んでみると、人と共通点を見つけて仲良くなることのほうが多かった。
これを痛感できたのは、やはり語学学校の友達の国籍の幅広さのおかげだ。
そりゃ国民性はあるが、それはただの統計であって偏見であってはならない。
人は人で、それ以下でも以上でもない。日本にいた頃だってそんな当たり前なことわかってた。
でも腑に落ちたのは留学後2〜3ヶ月経った頃だ。
オレなんて、海外に住んだことなくて、言語の不安もあって、心も繊細で、というチョッパーたちを、「うるせぇ行くぞ!みんな同じ人間だ!」と心の中のルフィが一掃してくれた。
イタリア人でも日本人でも大統領でもホームレスでも男も女も全員変わらない一人の人間。
同じ時間を生きている、ただそれだけ。
違いを見つければ見つけるほど同じところも見つかった。
②フットワークが軽くなった
行動力というべきか、何事においても積極的にアクションを起こせるようになった。これできたらいいな→するか、という流れがものすごくスムーズになった。
「いや、これを調べてからにしよう」「でも失敗したら全部無駄になるな」とか考えていた時間が、少なくなった。
臆病だった自分に対して、1年間のイタリア生活はその価値観を変えるのに十分であった。
だって時間も場所も有限だったから。
その時に決めないといつチャンスが来るかわからなかったから。
サバイバル感というのだろうか?
テルマエロマエの作者のような生活を送っていたわけではなく、むしろぬくぬくと過ごしていたが、(円安の音に怯えながら)
やはり『とりあえずやってみる精神』で動くことが、待つよりも時に大きなチャンスを生むということを実感した。
③見えないものへの想像力が高まった
午前2時踏切に〜的な表現ではない。
決めつけが少なくなった。
自分の見えている世界は180度もなくて、せいぜい見えても10度くらいの角度での出来事なんだと知った。(何だこの例え)
それはやはりいろんな生き方や考え方、働き方を目の当たりにして、自分の死角を知ったからである。
ピンと来なかった発言に対して、もしかしたらこう考えてたからなのかもしれない。もしかしたら…。という想像の幅が広がった。
「彼のあの発言は自分の考えとは違った」→「彼は〇〇に違いない」と思うのではなく、あくまでも仮定として考える、ということができるようになった。
言語以外にも、この3つを得られたことは私にとってものすごく価値のあることだ。
日本でもこれ体験できるって言われたら、確かにそうだと思う。
場所や職種を変えたり、生き方を変えたりしながら。
でも、日本という存在、また海外に、常に興味を持っていた自分にとっては、これは日本の外で得られた感覚だったからこそ価値があった。
ここでいう価値とはつまり、「幸せに生きる方法の手がかりになった」ということ。
それが、日本だけじゃない、日本の外でもどこでもそうなんだと改めて実感できたことは嬉しかった。
向こうでの具体的なエピソードや言語学習のコツについてもまとめてあるのでよかったらどうぞ
